lapin noir

Diary / Photographer / Sapporo

ライカの彼

 写真に写ったものすべてが真実ではないことを知っていれば、無駄に悲しまないで済んだと思う。皆が気分良くいられるならいいけれど、そうではない瞬間を目にする時もあるし、逆に日常では目につきにくい一面を写し、それを見たことで救われることがあるかもしれない。いずれにしても見た人の捉え方次第で解釈の幅は広げられるし、各々あらゆる受け取り方をしても間違いじゃない。
 以前、ある写真展に出展していた学生がいた。私がギャラリーへ行ったときに在廊中で、友達を撮ったというカラー写真が展示されていた。全体的に明るいトーンで、何枚か組まれていた斜め構図の写真が印象的だった。
 彼はカメラについて知識が豊富で、数多く所有した中でも、とりわけライカには思い入れがあるようでカメラに疎い私は話に聞き入っていた。言葉が多く論理的で一見偏屈に思えるエピソードもあったが、カメラに拘りを持つ人間の話としては理解できるものだったし、実際にファインダーを覗かせてくれたり尋ねたことは丁寧に答えてくれる実直そうな人柄だった。
 彼は撮り終えて、「友達は自分のことを"友達としてしか見ていない"と、わかった」と言った。
 被写体になったのは普段から接している女友達で、日常から離れたファインダー越しから、さらに写真に写った友達を何度も見ながら、そのように受けとり納得したことになる。いくつかの段階を経て自然に納得したのか、最初から薄々気づいていて、この機会に無理やり納得させたのかはわからないが、写真を通して自分への視線の意味を感受しようとする行為はマゾヒスティックだ。
 思い返せば、時間と気持ちに真っ直ぐ向き合う作業というのは私も若い時によくしていたかもしれない。それを写真で出来ることは羨ましいし、最近は本意でなくても流れていることが心地よかったりする時もあって、愛用するネジまき式の腕時計に耳を当てて音を聞かない限り、時を実感できない始末だ。
 最後に「この写真いいね」と、ある一枚について言うと「いや、友達ですから」と慌てて照れくさそうに答え、笑っていた。このときばかりは、カメラの話をしている最中の気難しく感じた表情は消えていた。